新聞を読まなくなって、何年経っていただろう。
テレビだって月に1時間つけるかつけないか。
報道を信用していないからかな。
事例とかデータとしてにしか利用する気がない。
文字数の限りがある中で、スピードを持って書き上げられる新聞記事。
判断する人によって、記事や見出しの大きさが影響力を変える。
数字や名称は合っていても、そこに登場する人間の本質を正確に表現できているわけがない、
といつも疑ってしまう。
わたしは日本語に敏感であるから『て、に、を、は』や語尾の表し方だけでも、
その事件の印象として受け止めてしまう。
〈これって、勝手に決めつけていいことなの?〉と記事の書き手に対して、
腹が立って憤りを持つことも少なくない。
新聞の取材を受けるのは嫌いだ。
たいてい記者とケンカをするか泣かせてしまう。
わたしがそんなんだから、うちの会社の広報も新聞のインタビューには慎重だ。
だってまず、原稿チェックをさせてくれない。
たかがインタビューなのに、犯罪やニュースでもないのに、自社規定とか報道の原則とか名乗ってやらせてくれない。
どんな文章能力のある記者かも知らないし、どういう書き方をされるかもわからないし、数字だって正誤性に確認が取れない。
自分の名前で発言をする限り、わたしは自分の言動に自分で責任を持ちたい。
だから、メディア出演するときは、とても慎重にならざるを得ない。
何年か前、あるゴールデンタイムのテレビ番組に出演していたことがあった。
もちろんこれも、編集を確認させてはくれないのだけど、
自分の発言を慎重にすれば大丈夫と、タカをくくって出演した。
ところがオンエアを観て、驚愕。
収録のときとトークの順序がまるで変えられていたり、
そこで笑った覚えはないのに他の場面でニヤっとした瞬間を挿入されたり、
面白可笑しくするために、
編集という作業によって、
わたしの本意とはかけ離れたものに仕上がっていたのだ。
まさに不本意とはこのこと。
すっかり怖くなって、その番組はとっとと降板した。
それ以来、テレビに出るときは、
しっかりと信頼関係が保てる人々との番組に限ることにした。
それでも、いまも毎週のように雑誌の取材は受けている。
原稿チェックは必ず自分でする。
いままで何百人のライターに会っただろう。
その程度の理解力と文章力で、あんたプロと言えるのか?という人も少なくない。
昨日は、久しぶりにパーフェクトな原稿がやってきて感心をした。
パーフェクトな原稿とは、取材対象者のいちばん良い発言を押さえ、情報が正確であり、
その媒体特性におけるニーズを理解し、正しい日本語、規定のワード数に収まる起承転結である。
なかなか無いことですもん、
まったくの赤字無しで原稿を戻せるなんて、とても気持ちが良かった。
最近『SANKEI EXPRESS』という新聞を取り始めた。
ある尊敬する人物がプロデュースに関わったということで、
興味を持ったからだ。
怖くない、狭くない、優しい印象のある新聞だ。
世界の視野で取り上げたトップニュース、
失いたくない日本を丁寧に報じるカルチャー面、
タブロイドサイズは好きだし、
クリエイティブは美しくて、
伝統的な新聞を打ち破る挑戦的なスタイル。
産経さん、そうとう思い切ったと思う。
横組で左開きになっちゃったってとこだけが、残念。
ページめくりにくいし、日本語がすらすら読めない。
そのうち慣れるのかな。
それよりも、毎日欠かさず読みたいと思えるようになるかが真価だろう。
それはまだわからない。
追記。
だいたい、ゴア氏が訴えているような地球温暖化問題も簡単に信用してはいけないと思う。
わたしが会った地球科学者は、
オゾン層の破壊に、二酸化炭素は関係しないし、フロンガスも関係しない、
現在の太陽と地球の周期として温度が上がっているだけで、
それよりも今、生命として対策を議論すべきは、
30年ほどで始まる寒冷化である、と語っていた。
そのほうがよっぽど生命にとってピンチであるという。
化学物質による環境汚染は温暖化とは別の大問題である、とも言う。
毎年、千種類以上の人工化学物質が地球上に登場しているそうだ。
調べてみると同じ見解を持つ科学者は実は結構多い。
メディアでクローズアップされることが少ないことに比例して、
この見解があることも知っている一般人はとても少ない。
はたして何が真実なのか、
一般レベルで情報をかき集めたところで何にもならない。
情報発信者を信用できるかどうか、
わたしたちはそれぞれ、自分の生活のために自己判断していくしかないのだ。
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